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ありがとうございます。自分の出生が東北とあって、なかなかこの戦いが、いろいろの点から理解しにくかったのですが、今回のこの動画を通じて、かなりみじかに感じられました。この動画を作るに当たって、たくさんのお時間を費やされている様に見受けられます。ありがとうございました。登録させていただきました。そして高評価ボタン。
現地に実際に行って頂きありがとうございます!なかなかいけないので本当にありがとうございました!
うわあ、クオリティ高すぎる。すげえチャンネルを発見してしまった。
ナレーションの語り口が、とても魅力的です。戦国時代の各武将たちの運命は、それぞれにどこか切ないものがありますね。その武将たちの家臣は勿論ですが、城下に集まっていた人々の運命も、いろいろな想像を掻き立てられました。
ありがとうございます。そうですね、ここにいた一万人をこえる人々が住む場所を追われ大変な思いをしたのかもしれませんね。
素敵です‼ありがとうございます❗❤
戦国時代が好きで名跡巡った時にここにも行きたくて九州から車で行きましたでも当時はナビとかも普及してなくて更に無理な山越えして道にも迷いこの辺りに深夜に着きました歴史を知ってるので時間も時間だけにやっぱだんだん怖くなってきた思い出があります
実に面白い🤣チャンネル登録しちゃいました。分かりやすい解説と画像で歴史を見れるなんて素晴らしいですね。朝倉家が滅亡したのは義景の優柔不断によるものだったと思います。戦国時代で生き残るのは大変だったでしょう。その時代が思い出されるような演出でした。
一乗谷の現地を見ながらの解説なのでイメージしやすかったです。なぜ2万の兵を要する朝倉氏が簡単に征服されたのかが良く分かりました。奇襲におののいて敵前で退却を始めるなんて、よほど戦慣れしていなかったのでしょうね。しかも山深い一本道を。そのチャンスを的確に掴んで陣頭指揮でチャンスを最極大化した信長。戦争が少なかったためか、国人衆の家臣団化も緩かったのではないかとも感じました。
朝倉宗滴が、いた頃は、朝倉軍は、強かったですが、宗滴が病死してからは、弱くなってしまった事ですね。弟子の山崎氏もいましたが、無理だったんだと思います。ただ、義景公は、政治的にたけた人物だったので平和に送っていたのですね。戦の少ない国ですから
up 有り難うございます。一乗谷は3回ほど訪問していますが、いづれも仲間と一緒だったため平地ばかりで山城に一度も上がれていませんでした。貴重な映像有り難うございます。戦の度に義景は殆ど他人任せに出撃させていたようで、戦国武将のカンは京趣味で鈍ってしまったのかな。
Nice place, where is it?
自身の中の点と点が線で繋がりました!素晴らしい動画だと思います。
悲しいけどどんなに優秀な経済力や街作りでも組織力の脆さが出始めたら、一瞬よ
朝倉氏の後に一向一揆を平定した柴田勝家が北ノ庄に入ったが、この付近の地はもう一度炎上する事になるんだよなぁ…
戦国の余の習いとわいえ悲しいですね何時も動画配信ありがとうございます楽しみにしてます
朝倉は「浅井の救援」という意識が抜けきれずに覚悟を決めてない状態で戦いを挑んだのが、最後に一気に畳みかけられて滅ぶ要因だったと思いますね。
中途半端なことするくらいなら行かなきゃ良かったですね。
ぜひ、一乗山城もいってくださいね。私が行ったのが10年以上前で屋敷の裏からの道が通行止めで資料館の方の尾根沿いで上がりましたが、典型的ななが~い中世山城であり、麓の館と併せて室町・戦国期が味わえますよ。(ちょっと長いけどそれほどきつくないです。前日にふふって適当に登った大野城で嘔吐するほどの熱中症になったけど普通に登れた程度、他の城郭も縦走して4~5時間かな。)
一乗谷は何度と訪れてますが、栄枯盛衰かひしひしと感じられる場所ですね
かか
数年前にこの地を訪れ、歴史を痛感しました。ありがとう😆💕✨ございました。 2021.8.16 万年少年より
いつも美しい動画ありがとうございます。自分も大阪にいた頃一乗谷に行きました。ただ冬の時期で雪がすごくてあまり見れませんでしたが・・。後北条家も5代目で滅亡しましたが、5代目は鬼門なのかな。ただ義景は戦う戦国武将としては能力は今一つだったかもしれないけど、一概に無能とは言えなかった気もしますよね。いずれにしろ朝倉氏は結構マニア的に気になる武将ではあります。この動画を見てもう一度良い時期に一乗谷に行きたくなりました。
2022年10月に新博物館が完成します。心からお待ちしております。
福井のそれも一乗谷までクルマで20分くらいの所に住んでいるのに改めて知ることもあり勉強になりました。現在新しい朝倉資料館が建設中です。
朝倉氏と武田氏の最期は悲惨です。
昨年、予定していた一乗谷、コロナで諦めてしまった。必ず行きます!
戦国の世でなければ良い人だったんだと思う自分は朝倉氏の心の弱さや誤った決断に人間味を感じてしまいます
朝倉 宗滴がいた頃が最盛期だったのでしょう。当主が逃げた城を守る気はならんわ...
行ってみたい。遠い…。
上城戸の方から織田軍が侵攻したと言われています。
景鏡は何故義景の切腹を止めたんだろうか
戦国武将が大好きで、とても勉強になります。今の政治家もここまで賢く日本の国を命懸けで守ってくれれば・・「既得権益の上に乗っかっているものばかり」命懸けで戦った武将に心がキュンってなります
阿君丸の死は、少なからず影響したのでは?義元同様、名家故の、奢りもあったのでは?
時の流れや、相手の力、自分の力を読めない人間には、いつの時代も敗北が待っている
足利義昭、今川氏真 、朝倉義景、平穏な時代なら評価も高かったかも
石田三成、小田氏治。
義昭は…。
朝倉滅亡も武田滅亡も人心の脆さから来る雪崩的な大敗。あれだけ強勢だったのに。正に「人は城」
現代にも通じる話です。首長を選び間違えると状況は異なりますが地域は変なことになります。経済と教育、治安、緊急対応、災害、医療、、、。
静岡と沖縄かな
東京だよ!ババアだよ!
一度いってみたいです。
朝倉は中央の混乱に乗じた成り上がり故に基盤弱く、幕府に一貫して味方傾向の若狭武田氏とも対立、信長ですら鎮圧苦労した一向一揆が隣国、嫡子も不在、後に柴田勝家も泣く羽目になる豪雪地帯。上洛した細川の崩壊、大内の撤退、三好の分裂も近くで見てるだろうから上洛する気も起きなかったろうし(上洛してる内に乗っ取られたらもっとやばい)、浅井の古来からの同盟も近年では疑問視という…
何か『百日後に死ぬワニ』のようなタイトル…
その漫画の映画は、売上と内容は、酷評です。
小谷と一乗谷、だいぶ距離あるぞ!車でも遠いと感じるのに、昔の人って・・・・
杉津に出てそこから三国港までは船です。案外近いです。ちなみに昔は、水津と言ったと思います。持ち場を守る武将は、吉田郡で有力家臣の鰐渕将監で後に朝倉道景、その側近の近江源氏で小谷城近くの山本山の山本氏です。
名門朝倉家の当主として信長なんか認めてなかったんだろね。
よく戦国武将の誰を尊敬しますか?と聞かれますが私は戦争をする人は好きになれませんと答えます。
ナポレオンもワシントンもお嫌いなのですね? エリザベス女王も。
そしたら偉人全員無理ですね😆
三大武家文化之一 被信长烧成废墟的“一乘谷文化”,之前究竟是什么样子的呢? 到底是一种什么气质的独立文化呢?
なんで、谷に住んでたの?すぐ近くに広大な平地があるのに
城戸って言う巨大な石垣と城門で谷を塞いでたから防衛都市として機能していた
最後の一族の長がバカ過ぎた、情勢を読めなかった愚かな首領。
今度行きますよ。
自衛に失敗したパターンですね
実際にここへ行きましたが、とてもそれだけの人口を収容出来る様な広さとは思えませんでした。両側を山に囲まれ、南北も都市として考えるととても長いとは思えない。2万の兵力を動員出来たと言うことは、その何倍もの人口がいないと徴兵出来ない訳で、実際には一乗谷以外にも人々はたくさん住んでいたんでしょうね。人口密度も相当高そう(笑) でなければ、厄介者に近かったとは言え、関係深い足利将軍家血筋の義昭の御殿を外輪部に建てるハズないですし(^^ゞ従兄弟である朝倉景鏡に裏切られて最後を迎えた義景。他にも幾人もの最後がある中、不思議と心に響くモノがあるんですよ。また一乗谷に行きたいです。
コメントありがとうございます。朝倉家の領国が越前ではなく、もうちょっと離れた越後や関東にあったら、意外と世の習いに従って生き残ったのかもしれないと思いました。信長のあまりにも速い進軍に対抗できなかった朝倉の本拠を訪れて「心に響くモノがある」というのはよ~くわかります。私自身もあまりにも早い展開や変化には対応できないので・・。
今年行きましたが現場は何も残っていなくて只広い敷地のみでした。武家屋敷、町人屋敷も整備してましたがいまいち臨場感が無い建物ばかしで、又庭園跡地も何もなくただ石垣で囲いしていたり、とで、とても京都とは比較になりませんでした!ましてや此のような雪の積もる場所に城を作ったりともう少し地の利を考えた町作りをすべきだったのでは無いか!
そりゃ庭園跡地みてもなんとも思わんやろ笑笑よく跡地だけでそんなに評価できたな😆
凡人だと言うことでしょうね。
この番組、たまたま遭遇し・興味深く、拝見・拝聴いたしました。「武漢肺炎ウィルス」が蔓延する頃、あの「 Go TO Travel 」キャンペーンに便乗して、この「越前一乗谷」遺跡を訪れたことを思い出します。ところで、番組中のアナウンスでは、「 イチジョウダニ 」と発音されていましたが、私が高校生の頃「イチジョウがヤツ 」と教わった記憶があります。他にも、「扇谷上杉氏」は「オオウギがヤツ上杉氏」と教わった記憶が強烈です。ということで、「聖徳太子」など存在しないなどの論説もあり、いわゆる「歴史学会」も「左翼リベラル」 が支配する時代の様ではあります。ということですが、番組の Up-Load ありがとうございます。
佐々木源氏の末裔なの?
一乗谷に巌流佐々木小次郎の姿があってトイレには六角氏家紋ですものね。当方の過去帳にも本嶽良融禅定門、靈岳良猯渉彌、等があり敦賀朝倉が巌流だと教わっており、ただ、義景の時代に2回上位の女性が入り、大野朝倉と敦賀朝倉が争う形になりました。慈徳院、積善院、等を使用しました。父も、よくわからない、と言っていて片桐から、山川、中川、と女系なので男子は完全に敦賀朝倉から消えて、逆に大野朝倉に野尻として繋がりが有り、西教寺が今は、巌流だと思います。
映像は素敵で勉強になりますが義景は大嫌いです。人の上に立つべき人でないですねw
義景は戦には向いていないですね…
でも当時の人口と規模からして、実際にはシーンとした現代のド田舎町クラスなんだろね。
ありがとうございます。自分の出生が東北とあって、なかなかこの戦いが、いろいろの点から理解しにくかったのですが、今回のこの動画を通じて、かなりみじかに感じられました。この動画を作るに当たって、たくさんのお時間を費やされている様に見受けられます。ありがとうございました。登録させていただきました。そして高評価ボタン。
現地に実際に行って頂きありがとうございます!
なかなかいけないので本当にありがとうございました!
うわあ、クオリティ高すぎる。
すげえチャンネルを発見してしまった。
ナレーションの語り口が、とても魅力的です。
戦国時代の各武将たちの運命は、それぞれにどこか切ないものがありますね。
その武将たちの家臣は勿論ですが、城下に集まっていた人々の運命も、いろいろな想像を掻き立てられました。
ありがとうございます。そうですね、ここにいた一万人をこえる人々が住む場所を追われ大変な思いをしたのかもしれませんね。
素敵です‼ありがとうございます❗❤
戦国時代が好きで名跡巡った時にここにも行きたくて九州から車で行きました
でも当時はナビとかも普及してなくて更に無理な山越えして道にも迷いこの辺りに深夜に着きました
歴史を知ってるので時間も時間だけにやっぱだんだん怖くなってきた思い出があります
実に面白い🤣チャンネル登録しちゃいました。分かりやすい解説と画像で歴史を見れるなんて素晴らしいですね。
朝倉家が滅亡したのは義景の優柔不断によるものだったと思います。戦国時代で生き残るのは大変だったでしょう。その時代が思い出されるような演出でした。
一乗谷の現地を見ながらの解説なのでイメージしやすかったです。なぜ2万の兵を要する朝倉氏が簡単に征服されたのかが良く分かりました。奇襲におののいて敵前で退却を始めるなんて、よほど戦慣れしていなかったのでしょうね。しかも山深い一本道を。そのチャンスを的確に掴んで陣頭指揮でチャンスを最極大化した信長。戦争が少なかったためか、国人衆の家臣団化も緩かったのではないかとも感じました。
朝倉宗滴が、いた頃は、朝倉軍は、強かったですが、宗滴が病死してからは、弱くなってしまった事ですね。弟子の山崎氏もいましたが、無理だったんだと思います。
ただ、義景公は、政治的にたけた人物だったので平和に送っていたのですね。戦の少ない国ですから
up 有り難うございます。一乗谷は3回ほど訪問していますが、いづれも仲間と一緒だったため平地ばかりで山城に一度も上がれていませんでした。貴重な映像有り難うございます。戦の度に義景は殆ど他人任せに出撃させていたようで、戦国武将のカンは京趣味で鈍ってしまったのかな。
Nice place, where is it?
自身の中の点と点が線で繋がりました!
素晴らしい動画だと思います。
悲しいけど
どんなに優秀な経済力や街作りでも
組織力の脆さが出始めたら、一瞬よ
朝倉氏の後に一向一揆を平定した柴田勝家が北ノ庄に入ったが、この付近の地はもう一度炎上する事になるんだよなぁ…
戦国の余の習いとわいえ悲しいですね何時も動画配信ありがとうございます楽しみにしてます
朝倉は「浅井の救援」という意識が抜けきれずに覚悟を決めてない状態で戦いを挑んだのが、最後に一気に畳みかけられて滅ぶ要因だったと思いますね。
中途半端なことするくらいなら行かなきゃ良かったですね。
ぜひ、一乗山城もいってくださいね。私が行ったのが10年以上前で屋敷の裏からの道が通行止めで資料館の方の尾根沿いで上がりましたが、典型的ななが~い中世山城であり、麓の館と併せて室町・戦国期が味わえますよ。
(ちょっと長いけどそれほどきつくないです。前日にふふって適当に登った大野城で嘔吐するほどの熱中症になったけど普通に登れた程度、他の城郭も縦走して4~5時間かな。)
一乗谷は何度と訪れてますが、栄枯盛衰かひしひしと感じられる場所ですね
かか
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2021.8.16 万年少年より
いつも美しい動画ありがとうございます。自分も大阪にいた頃一乗谷に行きました。ただ冬の時期で雪がすごくてあまり見れませんでしたが・・。後北条家も5代目で滅亡しましたが、5代目は鬼門なのかな。ただ義景は戦う戦国武将としては能力は今一つだったかもしれないけど、一概に無能とは言えなかった気もしますよね。いずれにしろ朝倉氏は結構マニア的に気になる武将ではあります。この動画を見てもう一度良い時期に一乗谷に行きたくなりました。
2022年10月に新博物館が完成します。心からお待ちしております。
福井のそれも一乗谷までクルマで20分くらいの所に住んでいるのに改めて知ることもあり勉強になりました。現在新しい朝倉資料館が建設中です。
朝倉氏と武田氏の最期は悲惨です。
昨年、予定していた一乗谷、コロナで諦めてしまった。必ず行きます!
戦国の世でなければ良い人だったんだと思う
自分は朝倉氏の心の弱さや誤った決断に人間味を感じてしまいます
朝倉 宗滴がいた頃が最盛期だったのでしょう。
当主が逃げた城を守る気はならんわ...
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遠い…。
2022年10月に新博物館が完成します。心からお待ちしております。
上城戸の方から織田軍が侵攻したと言われています。
景鏡は何故義景の切腹を止めたんだろうか
戦国武将が大好きで、とても勉強になります。今の政治家もここまで賢く日本の国を命懸けで守ってくれれば・・「既得権益の上に乗っかっているものばかり」
命懸けで戦った武将に心がキュンってなります
阿君丸の死は、少なからず影響したのでは?義元同様、名家故の、奢りもあったのでは?
時の流れや、相手の力、自分の力を読めない人間には、いつの時代も敗北が待っている
足利義昭、今川氏真 、朝倉義景、平穏な時代なら評価も高かったかも
石田三成、小田氏治。
義昭は…。
朝倉滅亡も武田滅亡も人心の脆さから来る雪崩的な大敗。あれだけ強勢だったのに。正に「人は城」
現代にも通じる話です。首長を選び間違えると状況は異なりますが地域は変なことになります。経済と教育、治安、緊急対応、災害、医療、、、。
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東京だよ!ババアだよ!
一度いってみたいです。
2022年10月に新博物館が完成します。心からお待ちしております。
朝倉は中央の混乱に乗じた成り上がり故に基盤弱く、幕府に一貫して味方傾向の若狭武田氏とも対立、信長ですら鎮圧苦労した一向一揆が隣国、嫡子も不在、後に柴田勝家も泣く羽目になる豪雪地帯。
上洛した細川の崩壊、大内の撤退、三好の分裂も近くで見てるだろうから上洛する気も起きなかったろうし(上洛してる内に乗っ取られたらもっとやばい)、浅井の古来からの同盟も近年では疑問視という…
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その漫画の映画は、売上と内容は、酷評です。
小谷と一乗谷、だいぶ距離あるぞ!
車でも遠いと感じるのに、昔の人って・・・・
杉津に出てそこから三国港までは船です。案外近いです。ちなみに昔は、水津と言ったと思います。持ち場を守る武将は、吉田郡で有力家臣の鰐渕将監で後に朝倉道景、その側近の近江源氏で小谷城近くの山本山の山本氏です。
名門朝倉家の当主として信長なんか認めてなかったんだろね。
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ナポレオンもワシントンもお嫌いなのですね? エリザベス女王も。
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2万の兵力を動員出来たと言うことは、その何倍もの人口がいないと徴兵出来ない訳で、実際には一乗谷以外にも人々はたくさん住んでいたんでしょうね。人口密度も相当高そう(笑) でなければ、厄介者に近かったとは言え、関係深い足利将軍家血筋の義昭の御殿を外輪部に建てるハズないですし(^^ゞ
従兄弟である朝倉景鏡に裏切られて最後を迎えた義景。他にも幾人もの最後がある中、不思議と心に響くモノがあるんですよ。
また一乗谷に行きたいです。
コメントありがとうございます。朝倉家の領国が越前ではなく、もうちょっと離れた越後や関東にあったら、意外と世の習いに従って生き残ったのかもしれないと思いました。信長のあまりにも速い進軍に対抗できなかった朝倉の本拠を訪れて「心に響くモノがある」というのはよ~くわかります。私自身もあまりにも早い展開や変化には対応できないので・・。
今年行きましたが現場は何も残っていなくて只広い敷地のみでした。武家屋敷、町人屋敷も整備してましたがいまいち臨場感が無い建物ばかしで、又庭園跡地も何もなくただ石垣で囲いしていたり、とで、とても京都とは比較になりませんでした!ましてや此のような雪の積もる場所に城を作ったりともう少し地の利を考えた町作りをすべきだったのでは無いか!
そりゃ庭園跡地みてもなんとも思わんやろ笑笑
よく跡地だけでそんなに評価できたな😆
凡人だと言うことでしょうね。
この番組、たまたま遭遇し・興味深く、拝見・拝聴いたしました。
「武漢肺炎ウィルス」が蔓延する頃、あの「 Go TO Travel 」キャンペーンに便乗して、この「越前一乗谷」遺跡を訪れたことを思い出します。
ところで、番組中のアナウンスでは、「 イチジョウダニ 」と発音されていましたが、私が高校生の頃「イチジョウがヤツ 」と教わった記憶があります。
他にも、「扇谷上杉氏」は「オオウギがヤツ上杉氏」と教わった記憶が強烈です。
ということで、「聖徳太子」など存在しないなどの論説もあり、いわゆる「歴史学会」も「左翼リベラル」 が支配する時代の様ではあります。
ということですが、番組の Up-Load ありがとうございます。
佐々木源氏の末裔なの?
一乗谷に巌流佐々木小次郎の姿があってトイレには六角氏家紋ですものね。当方の過去帳にも本嶽良融禅定門、靈岳良猯渉彌、等があり敦賀朝倉が巌流だと教わっており、ただ、義景の時代に2回上位の女性が入り、大野朝倉と敦賀朝倉が争う形になりました。慈徳院、積善院、等を使用しました。父も、よくわからない、と言っていて片桐から、山川、中川、と女系なので男子は完全に敦賀朝倉から消えて、逆に大野朝倉に野尻として繋がりが有り、西教寺が今は、巌流だと思います。
映像は素敵で勉強になりますが義景は大嫌いです。人の上に立つべき人でないですねw
義景は戦には向いていないですね…
でも当時の人口と規模からして、実際にはシーンとした現代のド田舎町クラスなんだろね。